文献の記述の違い

中国文献から邪馬台国関連の記述の争点
  1.臺(台)と壹(壱)
  2.景初三年と二年
  3.帯方郡から邪馬台国まで万二千里
  4.「水行十日陸行一月なり」
  5.呉の太伯

1.臺(台)と壹(壱)の漢字について
・「邪馬台国」と「台与」の表記について、『魏志倭人伝』の紹興本も慶元本も「邪馬壹(壱)国」と「壹(壱)与」と記述している。このことから、正しくは「邪馬壱国」と「壱与」とするべきだとする説がある。
・ 『魏志倭人伝』は北宋の咸平(かんぺい)年間(1003年頃)に、初めて木版印刷された。この国子監本(別名北宋咸平刊本)の発行から、今日に至るまで、諸本の刊行期である。しかし現在残っているのは、南宋以後の南宋本で、紹興本と慶元(けいげん)本[いわゆる紹熙(しょうき)本] になる。
・裴注本の成立(479年)から約570年間の写本時期に「壹(壱)」となったと考えられるのではないか。そのため紹興本と慶元本の両方とも「壹(壱)」となっている。
・ 『後漢書』は「臺(台)」となっている。 『後漢書』は『魏志倭人伝』より後の432年頃に成立した。つまり、当時あった『魏志倭人伝』を参考にして作成されたと考えられる。その後の中国文献の『梁書』、『北史』、『隋書』、『翰苑』、『通典』、『太平御覧』は全て、「臺(台)」となっている。
・これらの中国文献は、直接古い『魏志倭人伝』を参考にしたか、『後漢書』などその後の文献を参考にしたかは不明だが、全て「臺(台)」としたことで中国の文献としては、「臺(台)」が正しいと考えられる。『魏志倭人伝』だけが誤って写本されたまま残ったと思う方が自然だと思われる。
・『魏志倭人伝』の終わりの方の文章に、「・・・因りて臺(台)に詣り、男女生口三十人・・・」などで、「臺(台)」を使っているところがある。
・このように他では「臺(台)」を使用しており、「邪馬壹(壱)国」・「壹(壱)与」のように「壹(壱)」と使い方を分けているので、単なる写し間違いではないと主張する仮説がある。しかし写本者は中国語が分かる者が行い、文の内容から、「臺(台)」を意味する文字は分かるので間違わなかったと考えるべきである。
・それに対し「邪馬壹(壱)国」と「壹(壱)与」は国名、人名の固有名詞であるため、写本時に「臺(台)」を「壹(壱)」に間違えたと考えられる。
・一部の仮説のように、もし、意図的に「壹(壱)」を使ったとしたら、 その後に『後漢書』が何故、 「臺(台)」にしたのか説明がつかない。

2.景初三年と二年について
・景初二年としているのは『魏志倭人伝』だけである。それに対し、景初三年としているのは『梁書』、『北史』、『翰苑』、『日本書紀』である。
・魏の明帝[曹叡(そうえい)]は238年(景初2年)正月に遼東の地で自立し燕王と称した公孫淵(こうそんえん)に対し、司馬懿(しばい)仲達に命じて、遼東を攻撃させた。その年の8月に公孫子は滅んだ。そして、魏の明帝が景初三年正月に亡くなる。
・このように、卑弥呼は公孫子が滅び、魏の明帝が亡くなった情報を得て、魏に使いを出し、6月に魏に至ったと解釈した方が素直に受け取れる。
・また、『日本書紀』も『魏志倭人伝』を引用したとして、景初三年としている。写本で間違える以前の『魏志倭人伝』を見たのではないか。景初三年としているのは『梁書』、『北史』、『翰苑』、『日本書紀』で、景初二年としているのは『魏志倭人伝』だけである。
これも臺(台)と壹(壱)の漢字の違いと同じように、写本時の写し間違いと考えた方がよさそうである。
関連して、正始元年について、『魏志倭人伝』では正始元年に「太守・・・を遺(つ)かわし、詔書印綬を奉じて倭国へ詣(いた)り」とある。しかし正始元年としているのは『魏志倭人伝』と、『日本書紀』だけで、『梁書』、『北史』は正始中(240~249年)、『翰苑』は正始4年はあるが、正始元年はない。
このように年の記録は正確に記録されているわけではない。

3.帯方郡から邪馬台国まで万二千里『魏志倭人伝』では帯方郡から邪馬台国までの距離を「万二千里」と記述している。この一万二千里について、中国文献[『後漢書』(楽浪郡境界から)、『魏志倭人伝』、『梁書』、『北史』、『隋書』、『魏略』、『翰苑』]にも記されている。しかし『旧唐書』と『新唐書』では「京師から倭奴国まで」とか、 「京師から倭奴まで」とかなっているが、「万四千里」と記述している。「万二千里」は単に遠いところまでというように使う普通名詞ではなく、数詞として使っているように見える。

4.「水行十日陸行一月なり」の記述について
『魏志倭人伝』では「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月なり」とある。この記述が邪馬台国はどこかで、一番問題となる記述である。これに近い記述があるのは『梁書』、『北史』、『太平御覧』である。『魏志倭人伝』を参照したと考えられる中国文献に記述されている。結局、「水行十日陸行一月なり」記述は避けて通れない問題である。

5.呉の太伯の記述について
『魏志倭人伝』には記述されていないが、『晋書』に「自ら太伯(呉の始祖)の後裔だといい、・・・」のように太伯の記述がある。このように太白の記述があるのは『晋書』、『梁書』、『北史』、『魏略』、『翰苑』である。倭は呉の太白の子孫だと主張していたようだ。

これらの中国文献の記述

表題記述記述書
臺(台) or 壹(壱)邪馬臺(台)国後漢書、梁書、北史、隋書、翰苑、通典、太平御覧
邪馬壹(壱)国魏志倭人伝
景初三 or 二年景初三年梁書、北史、翰苑、日本書紀
景初二年魏志倭人伝
正始元年正始元年魏志倭人伝、日本書紀、翰苑(正始元年はない、正始4年はある)
正始中(240-249)梁書、北史
帯方郡から邪馬台国万二千里後漢書(楽浪郡境界から)、魏志倭人伝、梁書、北史、隋書、魏略、翰苑
万四千里旧唐書(京師-倭奴国)、新唐書(京師-倭奴)
水行十日、陸行一月魏志倭人伝、梁書、北史、太平御覧
太伯晋書、梁書、北史、魏略、翰苑

■『魏志倭人伝』と『日本書紀』
・『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に比定している。その記述では参考文献として『魏志倭人伝』と晋の『起居注』をあげている。
・『日本書紀』は『魏志倭人伝』の引用として、神功皇后39年(景初三)で倭の女王が使者を遣わす記述があり、神功皇后40年(正始元年)で魏から倭国へ送った詔書や印綬の記述があり、神功皇后43年(正始四年)で倭王が使者を遣わす記述がある。そして、『日本書紀』 は『魏志倭人伝』に掲載している正始六年と正始八年を記述をしていない。
・『日本書紀』は晋の『起居注』の引用として、神功皇后66年(泰始2年)で、倭の女王の貢献の記述がある。これは『日本書紀』では泰初2年としており、漢字一字が違う。また、神功皇后66年の記述について、『魏志倭人伝』では台与が使者を送った記述としているが、

中国では、清の時代に歴史を記したものとして、二十四史が制定された。
その二十四史から、史記~新唐書を下記に示す。

項番文献名著者成立年邪馬台国関係補足
1史記司馬遷×
2漢書班固×60年頃『漢書』地理志、
楽浪海中に倭人有りとある
3後漢書范曄432年
4三国志陳寿284年『魏志倭人伝』
5晋書房玄齢等648年
6宋書沈約487年×
7南斉書蕭子顕487年-537年
8梁書姚思廉629年
9陳書姚思廉
10魏書魏収
11北斉書李百薬
12周書令狐徳棻等
13隋書魏徴・長孫無忌等636年
14南史李延寿659年
15北史李延寿659年
16旧唐書劉昫等945年×「倭国伝」と「日本国伝」の
2つが並立している
17新唐書欧陽脩・宋祁1060年×670年に「倭」をあらためて
「日本」と号したとの記述
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