魏志倭人伝とは

・中国で、歴史書『春秋』を編集したのが紀元前480年であり、司馬遷が『史記』をあらわしたのが紀元前91年である。 『三国志』は280~285年に、西晋の史官陳寿(ちんじゅ)が書いた歴史書で、魏、呉、蜀の三国が争った時代を書いたものである。
・ 『三国志』のなか、『魏書』 の『東夷伝』から、倭人のことが書かれており、これを『 魏志倭人伝』としている。 『東夷伝』は倭以外に、夫餘(ふよ)・高句麗・東沃沮(とうよくそ)・挹婁(ゆうろう)・濊(わい)・韓などについても書かれている。
・『 魏志倭人伝』は、倭について、帯方郡から出発して、倭の国にいたるまで、更には倭の風俗、動植物に至るまで書かれおり、女王国についての政治状況、卑弥呼の死、壱(台)与の代についてまで書かれている。
・中国側が日本について、このような詳細な記録を行うのは珍しく、その後もここまで詳細な記録書を残すことはない。これは倭に行った魏の使いの張政(ちょうせい)の詳細な報告書を陳寿(ちんじゅ)が書き写したとの説が有力である。

■『魏志倭人伝』のテキスト
『三国志』は、太康(たいこう)年間(280~289)に成立したと考えられている。魏書(魏志)、呉書(呉志)、蜀書(蜀志)があり、現在の『三国志』のテキストが成立するまでには多くの変遷を経ている。
・陳寿により撰述されてから以後、約130年間の写本の時期。 西の方の敦煌などから出土しているのは『呉志』である。現在のものと異なる箇所がある。
・南朝の宋の裴松之(はいしょうし)が注を付した、裴注本の成立(479年)から約570年間の写本時期。これが高評だったので、これ以外のテキストが駆逐された。
・北宋の咸平(かんぺい)年間(1003年頃)に、初めて木版印刷された国子監本(別名北宋咸平刊本)の発行から、今日に至るまで、諸本の刊行期。しかし現在残っているのは、南宋以後の南宋本になる。

現在まで残っている『三国志』のテキストは次の二つがよく知られている。
紹興(しょうこう)本
南宋の初期の紹興年間(1131~62)に刊行されたもので、「東夷伝」、「倭人伝」を含む刊本としては現存最古。
文字数は1,985文字。
慶元(けいげん)本[いわゆる紹熙(しょうき)本]
南宋の紹熙年間(1190~94)に刊行されたとしばしばいわれているテキスト。南宋中期の建安で印刷された坊刻本(民間で刊行された本)で紹熙年間に刊刻された根拠はない。宮内庁書陵部に存在する。
慶元年間の刊本が存在するだけなので、慶元本とよぶのが妥当で、俗字や略字が多くテキストとしては余り良くない。 張元済(ちょうげんさい)(清時代から中華民国)が百衲本二十四史を編纂したとき、『倭人伝』の部分は日本の宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。
文字数は1,984文字。

■紹興本と慶元本の違い
・紹興本と慶元本の違いは、
①紹興本は「対馬国」  慶元本は「対海国」
②紹興本は「自女三国以北 」  慶元本は「自女王国以北」
③紹興本は「其戸数道里可略載 」  慶元本は「其戸数道里可得略」
④紹興本は「都支国」  慶元本は「郡支国」
などがある。
ある一つの系統の刊本だけが正しくて、それと一致しない他の系統の刊本の文字がすべて誤りである、というようなことは主張できない。
いくつかのテキストを照らし合わせて(校合して)、もっとも妥当とみなされるものをえらぶ以外に方法がない。

・現存のテキスト
①標点本『三国志』 (中華書局刊)
現代における標準的なテキスト。段落をもうけ、固有名詞に傍線が付され、句点(マル「。」)や読点(テン「、」)などがはいっている。現代の中国人学者たちが判断した標準的なくぎり方を知ることができる。
②百納本『三国志』 (台湾商務印書館刊)
清朝から中華民国時代にかけての学者、張元済が、いくつかの版本を集め、写真にとってまとめたもの。
③『三国志集解(しっかい)』 (『二十五史7』芸文印書館刊)
清の考証家、盧弼(ろひつ)の撰による。ややくわしく記している点に特徴がある。
④『和刻本正史 三国志』 (汲古書院刊)
日本の出版社から出されており、ふつうの書店に注文すれば、容易に手にいれることができる。句読点、返り点、送り仮名がつけられている。

以上から、『魏志倭人伝』は陳寿が書いた、原本や古い時代の写本は残っておらず。宋時代の刊本が古いとされているが、原本からの誤写も考えられるのに、宋時代の刊本が正しいとすることから、「邪馬壹(壱)国」「邪馬臺(台)国」や、「景初二年」「景初三年」などの対立する説が生まれる原因となっている。

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